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ネット&読書探索の遍歴
by kaursh
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セ・パ両リーグ誕生の歴史
a0024788_0533822.jpg では、どうしてセ・リーグとパ・リーグに日本のプロ野球は分裂したのだろうか?その理由について、これまでにこのブログで一部を紹介した佐野真一の『巨怪伝』に詳しい経緯が描かれている。

 現在はプロ野球のコミッショナーは。日本の最初のコミッショナーは正力松太郎。読売新聞の社長だったが、A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に1947年まで入っていた。そして彼が最初に戦後に具体的に仕事を始めた一つが1949年の初のプロ野球コミッショナー就任。そして、2リーグ制導入を提唱したのである。

 2リーグ制の確立までには、多くの人々が一喜一憂することになった。というのも、正力は一度は2リーグ制を放棄したかに見せて、巨人、中日、太陽、阪神、阪急、南海、大映、東急という既存の球団の他に、複数の新たな球団の結成を促していた。その目玉が1950年の毎日新聞の球団である毎日オリオンズの結成だった。この当時、正力松太郎は読売新聞から追放されていたため、当時の読売の首脳部が正力松太郎と対立する関係にあったためだ。1リーグ制で読売と毎日の対立となれば、巨人軍のイメージの低下が予想されていた。だが、正力による読売に対する嫌がらせは長続きしないで、チームを2リーグに振り分けるという当初のプランを実現することになったのである。

 1949年11月26日、セ・リーグは巨人、中日、太陽、阪神、パ・リーグは阪急、南海、大映、東急というそれぞれ四球団でのリーグ結成だった。そして1950年には、新たに、セ・リーグには、広島、太陽、国鉄、西日本の四球団が参入して、なんと8球団になった。パ・リーグには、毎日、西鉄、近鉄の三球団が参入して、7球団になった。合計15チームという中途半端な数の球団が揃ったのである。毎日は正力松太郎の勧めでプロ野球参戦ということになったが、いざ球団が結成されてみると、不人気なパ・リーグに回されてしまった。当初は人気を集めていた阪神がパリーグに移る話が進められていたが、これも正力によって阻止されることになった。

 こうやって、歴史をひもといてみれば、日本のプロ野球界全体は読売系の一人の人物によって翻弄され続けてきたのである。しかし昔の2リーグ制への移行は少なくとも球界全体の発展を勢いづけることになった。これに比べて、現在の球団首脳部の人々の動きは、深刻な閉塞状況に置かれているとしか思えない。

 そんなことを考えると、中途半端な数なんてあまりに気にすることはない。どうせならば、11球団にするのか、13球団にするのか、という新たな選択肢を考えるべきなのかもしれない。

(写真はこの当時に巨人の移籍した別所毅彦。彼は南海に在籍していたが、家も購入できないことで、球団と対立。それを知った巨人が彼を引き抜くことになった。そのことで、南海と巨人が対立して、2リーグ制導入の時も、この問題が尾を引いていたため、南海はパリーグへ行くことになった。)

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        by kaursh | 2004-09-18 00:21 | スポーツ
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