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ネット&読書探索の遍歴
by kaursh
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ナベツネは教育パパだったらしい。
a0024788_23451623.jpg 『渡邊恒雄メディアと権力』の続き。このあたりは話が急にやばくなってくる。自民党総務会長の大野伴睦(バンボク)の番記者になったことで、渡辺は大きく飛躍することになる。政治家を中心にKCIAの大物、児玉誉士夫、中曽根康弘との関係などとコネクションを広げていき、驚くべきことに政治的な問題に直接介入するまでになっているのだ。おそらく、その詳細な経緯はもっと面白い話であるはずなのだが、このあたりの過程については、著者の魚住昭も十分に論じているとはいえない。しかし現在の所、この本が一番肉迫した取材結果なのである。

 しかし渡辺もそのまますんなりと読売のトップへと駆け上がれたわけではなかった。首相を目指していたが挫折した大野伴睦が急死してしまい、その後の政情を動かす役割を果たしたが、先の見えない状況に陥っていた。昭和43年に、読売新聞社の新社屋の建設予定地の交渉を佐藤栄作を相手に行って成功したが、佐藤を新聞で批判していた渡辺自身のワシントン支局への移転を条件に話がまとまる。その結果、数年間、(あまり英語ができない状態でありながら)渡辺はワシントンで仕事をすることになり、その間に自分のグループの人間は社内の中枢からはずされてしまうことになる。帰国するころには社内の情勢は渡辺には劣勢なものとなっていた。

 47年の帰国後に、渡辺は熱心な教育パパ振りを発揮して、番町中学校に進んだ息子の睦をしばしば殴ってはご馳走して宥めながら勉強を教えたりしていたらしい。学習参考書を買いあさって、いいものを選び出し、家庭教師を大量に雇いながら、自分も教えるというようなことをしていた。これは父親を早く亡くした渡辺自身が母親から厳しい教育を受けたことが反映しているのだろう。息子が高校の当時、雑誌で、ハダカで息子と付き合うために、息子と一緒でなければフロに入らない、と発言。……よくわからない。

 検索していたら、渡辺オーナーネタを展開しているブログナベツネ不安倶楽部というのを発見。7月22日にまた暴言を吐いてしまったらしい。ちなみに、このブログはライブドアでやっている。
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        by kaursh | 2004-07-22 23:42 | ノンフィクション
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