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ネット&読書探索の遍歴
by kaursh
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アラファト議長死去
a0024788_13473868.jpg ニュース速報で流れたように、あのヤセル・アラファト議長(1929-)が入院先のフランスの病院で亡くなった(CNN日本版)。武力闘争の末に、イスラエルとの和平交渉が進展してオスロ合意イツハク・ラビン首相と結んだ。それにしても、アラファト議長、彼の顔は一度見ると忘れられないいい顔である。極東ブログによると、1990年に、議長は34才若いスーハ・タヴィルと結婚(一番下の画像が二人の姿)。パリで幸せな様子も見せていたが、パレスチナ紛争のさなかということもあって、逆に妬まれてしまうということにもなっていた。とはいえ、やはり軟禁状態なので、他の市民に比べていい環境にいたとしても、楽な仕事をやっているわけではない。今となってはこんな非難の声も忘れられてしまうのだろう。

a0024788_144493.jpgアラファト議長はヨルダン川西岸のラマラ自治区で軟禁状態にあったが、11月27日には意識を失うなど病状が悪化していた。11月29日にパリ南西のペルシー軍病院に移送。祖国を離れる際に、衰弱の激しい様子ながらもアラファトは笑顔で浅い後の挨拶をしていた。入院後には、死亡説や危篤状態などがささやかれるなかで、パレスチナ側はイスラエル政府との間で埋葬先をめぐって協議していた様子である。現在の情報では、今日11月11日早朝にペルシー軍病院で死亡が確認され、パレスチナ高官も死亡を認めた。イラク情勢も大変だが、パレスチナ情勢のほうも先が見えなくなってきている。3月22日には、イスラエル軍が武装ヘリでハマスの精神的指導者ヤシン師を暗殺。これでパレスチナの二つの巨星が消えてしまったことに。

a0024788_13562541.jpgアラファトは1958年に抵抗組織のファタハを結成し、69年からはPLO(パレスチナ解放機構)議長に就任。この武力闘争の時代に、アラファトは不運にもヘリか飛行機で墜落したことが2回ほどあるが、そのたびに奇跡の生還を遂げた(確か他の乗員はほとんど死亡)。そこから不死身伝説まで囁かれた。この時期のアラファトは濃いヒゲでサングラスをかけたりして、強面だった。よく見ると笑顔はおんなじだが、最近のやさしいイメージとはかなり違って、やはりどこか怖そう。(パレスチナの歴史についてはこちらが地図つきで詳しい。結構面倒な歴史だが、イスラエル国家樹立以来の中東の混乱が見えてくる。)

a0024788_15283080.jpgパレスチナ自治区は無政府状態のまま、イスラエルの弾圧に抵抗して、1987年12月にガザ地区と西岸地区では自然発生的に投石運動が広がった。これがインティファーダ。十分な武器も兵力がなくとも、イスラエル軍に対する投石運動は大きな脅威となって、アラファト議長をパレスチナに受け入れることになり、さらには、和平交渉まで進んだという経緯がある。ブッシュが再選したことで、ネオコンつながりのシャロンの政権もしばらくは安泰そうなので、パレスチナ側の再出発がどうなるのか。。PLO議長にはアッバスが後継になった。また、アラファトが握っていた巨額の公金の行方が問題となる(スーハ夫人も絡んで複雑)。

Baka Diary Must Go On!! - ロンドン帰りのバカ日記では、アラファトが篠原涼子と似ていると指摘されてました。うーん、確かにちょっとどこかが似てるような気がします。

ヨーロッパでは、テオ・ファン・ゴッホ監督殺害事件の余波とコートジボワールの騒乱でアラファトの話もトップではなくなっている。その記事の方もどうぞ。
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        by kaursh | 2004-11-11 14:19 | 海外情報
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